喫茶店

 



 弟が高校を辞めた時、俺は大学のサークルの友人と毎日のように吐くまで酒を飲むような日々を過ごしていた。

 母さんからの電話で、その報告を受けた時も、俺と友人数名は、乳首からアルコールが出るくらいに酒に犯されていた。

 星也が学校辞めたよ、と母さんは言った。俺は、回らない口で、「じゃあ、俺も辞めるわ。辞めないけど」と言った。その時は、なんのことやら、さっぱり理解ができないまま、電話を切ると、友人たちと協力して、さらに十数本の缶ビールを開けた。テーブルに空のビール缶を並べて、まるで酒との戦いに勝利した気分に浸りながら、そのまま床で眠った。

 次の日の朝になってすでに割れていてもおかしくないくらいに痛い頭を抱えて、コップ一杯の水を飲むと、ようやく正気を取り戻して、昨晩の母からの電話について考えることができた。

 弟が高校を辞めた、と母さんは言ったが、アルコールに犯されていない頭でも理解することができなかった。俺は、母さんに電話して確認をした。母さんは、確かな口調で「星也、高校辞めちゃったのよ」と言った。

「なんで?」

 と俺は言った。

「知らない」

「なんで知らないんだよ? 母親だろ?」

「あんたこそ、お兄ちゃんでしょ」

「お父さんは?」

「さあ」

「さあ、ってなんだよ」

「でも、いいじゃない。あの子が決めたことだし」

「いいわけないだろ」

「それよりあんた、酒臭いよ」

「電話でわかるのかよ」

「わかるわよ。飲み過ぎたらだめよ。お父さんを見てるでしょ」

「分かってるよ」

「あんまり遊び過ぎてると、学校辞めさせるからね」

「分かった。分かった。じゃあ、俺も辞めようかな」

「バカ言ってないで、勉強しなさい」

 俺は、母さんの小言が始まりそうだと思い、慌てて電話を切った。

 アルコール漬けになった体は異常に重たく、まるで体に泥でも塗られているみたいだった。

 隣で床に寝ていた友人が起きぬけに「誰に電話してんだ。女か?」と言った。俺は「もちろん、内縁の妻から」と言って、二人でゲラゲラと笑った。

 友人たちは、辛そうにしながら「授業に行ってくる」と三々五々に家を出て行ったが、俺は結局、学校を休むことにして、一日中療養に努めた。

 その間、何度もスマートフォンを眺めては、弟に電話をしようか悩んだ。しかし、どうしてか、気が引けてしまった。弟が学校辞めたということがどうでもよかったわけではない。むしろ、これ以上ないくらいに、柄にもなく心配をしていた。これがただの友人であればなんの気なしに電話をすることができるのだが、弟ともなるとそうは行かなかった。

 その日は、電話をかけることができなかった。日が沈む頃に、友人たちが、懲りずに缶ビールを大量に集めて来たので、また酒との戦いがはじまった。

 しかし、どうしてか、その日はあまりビールが喉を通らなかった。二日続けてのアルコールだったので、肝臓が弱っていたのだと思う。

 

 

 

 弟、と聞くとどんなイメージをするだろうか?

 兄の後ろをついて歩く姿だったり、少年らしい笑顔で、みんなから可愛がられている姿を想像する人もいるかもしれない。しかし、俺にとっては、弟というのは何を考えているか分からない宇宙人のようなものだった。

 世間一般に言う兄弟であれば、兄が野球を始めれば、弟も野球を始めたり、兄がトレーディングカードを集め出したら、弟も母親にそれをねだるものだと思う。我が弟、星也は、兄の真似など一度もしたことがなかった。俺が野球を始めた時に、弟は、ピアノを習いたいと母さんにねだった。なぜかと尋ねると、弟は「兄さんが野球している姿を見て、僕たちには野球の才能がないことが分かった」と言った。

 確かに、俺に野球の才能はなくベンチがポジションだった。それに弟は、ピアノのコンクールで何度か賞を取るほどの腕前だった。「兄さんもピアノやればよかったのに」と事あるごとに言っていた。

 弟のことを考えるといつも思い出すことがある。

 あれは、まだ弟が小学三年生のころで、夏休みの真っただ中だった。弟は運悪く夏風邪を引いて、寝込んでいたのだ。本当は、友達と市民プールに行く約束をしていたのだが、母さんに言われて、俺は弟の看病をすることになった。

 その当時は、母さんはパートでフィットネスクラブの事務員をしていて、日中家にいれないことが多かったのだ。

「ごめんよ。兄さん。プールいけなくなっちゃったね」

 弟が言った。

「いいよ。べつに。プールは今度でも行けるし」

「そうだね。看病は今しかできないもんね」

「図々しいやつだな」

 弟は、咳交じりの笑いをこぼした。

「とりあえず、たまご粥つくって」

 さらに図々しく弟が言った。

 俺は、多少苛立ちを感じたが、夏休みの真っただ中に風邪を引いてしまった弟に同情を感じないわけでもなかったので、すぐにたまご粥をつくってやった。

 今でも、不思議で仕方がないのだが、驚いたことにできたたまご粥を茶碗によそって寝室に行くと、弟がさっきまで寝ていたはずのベッドにいなかったのだ。俺は、トイレにでも行っているかと思って五分ほど待ったが、戻ってくる気配がないのでリビングやトイレを探しに行くことした。それから家の中を探しまわったけれども、弟のおの字も見つからず、俺は、そこでいよいよおかしな事態になったと実感した。冷や汗がじわじわと出て来て、夏だと言うのに妙な寒気を感じた。あとにもさきにもあんなに焦ったことはなかった。

 慌てて、玄関の靴を確認すると弟の靴はなかった。あろうことか、たまご粥をつくっているすきに、弟は風邪を引いた体で外に出て行ったのだ。

 その時、俺は激しく動揺していておかしいくらいだった。なぜか冷蔵庫のドアを開けてしまったほどだ。そんなところにいるわけがないのに。

 弟がいなくなってから十五分が過ぎた時に、ようやく母さんに電話しようと思い立って、備え付け電話の受話器を持ちあげた時に、ドアの開く音と「ただいま」という弟の声が聞こえた。

 慌てて転びそうになりながら玄関に向かうと、そこにはびしょぬれになった弟がいた。

「わざわざ、出迎えてくれるんだね」

 弟が言った。

「お前、何してたんだよ」

「びしょぬれだよ」

 弟は全身びしょぬれでパジャマの裾からしずくが垂れていた。

「いやだから、何してきたんだよ!」

「兄さん、タオル持ってきてくれる」

 俺は、とにかくパニックになっていて、とりあえずバスタオルと着替えを持ってきてやった。

「ありがとう。兄さんは、気がきくよね。ほんと、天才」

「とにかく、なにをしてたのか説明してくれ」

「分かった。分かった。ちょっと、先に着替えさせて」

 そう言って、弟は、脱衣所へ行くと丁寧に体を拭いて、あたらしい寝巻に着替えた。その間、俺は、バカみたいに、弟の様子を見守っていた。着替えが終わると、弟は、「のどかわいたな」と言って、急に床に倒れ込んだ。

 俺は、またもやびっくりしたが、すぐに弟を抱えて、ベッドに寝かせた。弟の体は稼働し続けたゲーム機みたいに熱くなっていた。

 その時、苛立ちを感じたが、その反面、どうしてか弟を誇らしく思うような気持ちもあった。ほんとに、不思議なやつだ、と思った。これだけ人に迷惑をかけておいて、どうしてか憎めないのだ。その時の弟の寝顔は、熱で頬が赤くなっていたが、かわいらしくもあった。

 真相は、その日の夜に分かった。

 細川さんという近所の人が訪ねてきたのだ。細川さんの話だと、息子の祐二くんが川に溺れて流されていたところ、星也が川に飛び込んで助けてくれたのだと言う。

 その時星也は、寝ていたので細川さんは、寝ている星也の手を両手で握り絞めて、額に近づけながら、「ありがとう」と深々とお礼を言って帰って行った。

 父さんや母さんは、なにが起きたのかさっぱり分からないような顔で、きょとんとしていた。もちろん、俺も同様だ。一連の流れは父さんと母さんには説明はしていたが、誰が理解できようか?

 死んだように寝ていた弟は、夜中の一時に目を覚ますと、「兄さん、たまご粥つくってくれよ」と言った。

 俺は、たまご粥を温め直してやった。

 弟に、「どうして家を出て行ったのか?」と聞くと、「いや、あの時、今家を出て行かなかったら、一生後悔するような気がしたんだよね」と弟は言った。

 いったい、何者なのだろうか?

 これが、俺が弟に抱いている印象だ。

 そんな不思議なことをする弟だったので、恥ずかしい話し神様か仏様の生まれ変わりではないのかと真剣に考えていた時期もあったくらいだ。

 

 

 

 母さんから電話で弟が退学したことを聞いてから九日後の日曜日に、ようやく決心して、俺は弟に電話をすることにした。

 朝起きて、まず冷蔵庫からビールを取りだして、飲んだ。ビールはよく冷えていた。それから、カップラーメンを食べた。

 お腹も落ち着いたところで、弟に電話をした。

 三コールで、弟は電話に出た。

「もしもし」

「星也。久しぶりだな」

「久しぶりだね。兄さん」

「今、いいか?」

「ちょっと待って、今忙しいんだよ。またかけ直すね」

「ああ、そう。わかった」

 俺は、スマートフォンをテーブルに置いて、もう一本ビールを開けた。雑誌を読みながら弟からの電話を待つことにした。自分が思っている以上に、普段通りの心境ではなかったようで、雑誌の内容は全然頭に入って来なかった。

 弟から電話があったのは、一時間後だった。

「やあ、元気? 兄さん」

「まあ、元気だよ」

「なんか酒臭いよ」

「電話で臭うのかよ……。母さんと同じこと言うなよ」

「なんか、酒ばっかり飲んでるらしいじゃないか。母さんから聞いているよ」

「まあ、そうだな。確かに酒は飲んではいるけど、俺の話しは置いといてだな。聞いてるぞ、お前学校辞めたんだって」

 弟は笑った。

「そうそう。学校辞めたんだよ」

「随分明るいな」

「まあね。別に、暗くならなくちゃいけないわけでもないでしょ」

「まあ、確かにな」

 俺は、そこで沈黙してしまった。どうしてか、「なんで学校を辞めたのか?」その言葉が口から出てこようとしなかったのだ。

「通信とか行くのか?」

 挙句に、俺はそんなことを言った。

「行かないよ」

「もう学校は行かないのか?」

「うん」

「そうか」

「うん」

 また、「どうして?」の言葉が喉に引っかかった。

「そうか」とだけ、俺は言った。

 それから、弟と中身のない話しをした。最近観たドラマや映画の話。近所にできたお店の話。父さんが交通事故を起こした話。そして、電話を切った。

 俺は、また、冷蔵庫からビールを持ってきて開けた。

 弟に、「どうして学校を辞めたのか」を聞くことができなかった。その理由は自分でも良く分からなかった。弟に気を使っているわけではないし、気になっていないわけでもない。内心気になって仕方がなかった。それでも、聞くことができなかった。

 その後、母さんに電話して、弟が学校を辞めた理由を聞いた。「知らない」と母さんは言った。また、「自分で聞きなさい」とも言った。

 母さんが、弟から学校を辞めた理由を聞いていないことに腹が立った。危うく母さんに怒鳴りそうになったが、なんとか堪えて、電話を切ると、ビールを煽った。

 缶ビールを見て、以前友人が、「酒を飲むというのは、遅行性の毒を飲んでいるようなものだ」と言っていたのを思い出した。すると、俺は、長い自殺を試みている最中なのかもしれない。

 それから、急にビールが喉を通らなくなって、残ったビールを流しに捨てた。

 ベッドに横になると、目をつむってどうして弟が学校を辞めたのかを想像してみた。

 いじめられていたということはたぶんないと思う。弟は、人気者で誰からも好かれるようなヤツだった。勉強についていけなくなった、という可能性は、少しある。あまり勉強ができる方ではなかったし、何度もテストで一桁をとって補修を受けていたことがあったくらいだ。それでも、勉強について行けないからと言って学校を辞めるとは考えにくい。

 ただ、なんの理由もなく学校を辞めたとしても、それはそれで弟らしいな、とも思えた。

 

 

 

 弟が学校を辞めてから、半年が経った時に、急に弟に呼び出されたことがあった。

 その頃は、俺も酒の飲み過ぎで単位を落としそうになっていて、忙しくしていたので、弟のことも半分忘れてしまっていた。

 その日、弟とは、実家の近くの喫茶店で落ちあう約束になっていた。

 俺が、店に入ると、弟は、すでに奥の席に座っていて、本を読んでいた。

「悪いな。待ったか?」

 俺は、言った。

「いや」

 弟は、そう言って、本を鞄にしまった。

「なんか飲む?」

「そうだな、じゃあ、アイスコーヒーもらおうか」

 弟は手をあげて、店員を呼び止めると、アイスコーヒーを二つ注文した。

「単位、取れた?」

 弟は言った。

「いや、落としそうだな」

「大丈夫でしょ。兄さんなら」

「ほんとにまずいんだ」

 弟は笑った。

「そうなんだ。酒の飲み過ぎだね」

「そうだな。それ以外は、考えられないな」

「そうだね」

 店員がアイスコーヒーを持ってきた。

 俺は、一口飲んだ。

「一応さ」弟が言った。「報告があるんだ」

 弟の目を見ると、やさしく光っていた。無垢とは、こういうことを言うのか、と俺は思った。

「どうした?」

「おれさ。学校辞めたんだよ」

「知ってるよ」

「それからさ。就職したんだ」

「就職? どこに?」

「市内の個人経営の洋食屋なんだけど」

 俺は、話を聞きながら少し戸惑っていた。

「オーナーが、偏屈なんだけど良い人でさ。お願いしたら、雇ってくれたんだ」

「料理なんかできんのか?」

「できないよ」

 弟は、そう言っておいて、満面の笑みだった。

「ずっと皿洗いと、掃除してる」

 よく見ると弟の手には、無数のあかぎれができていた。

「でもさ、結構面白いんだ」

「そうなんだ」

「オーナーの奥さんがまかない食べさせてくれるし、お客さんは年上の人ばっかりだからさ、なんか可愛がってくれるし」

「母さんは知ってるんだよな?」

「もちろん。知っているよ。オーナーがわざわざ、父さんと母さんに挨拶に来てくれてたんだよ」

「良い人だな」

 なんだか、その時、妙な気分だった。

 無事就職先が見つかって安心した部分もあったし、自分の決断でなんだかんだ道を見つけることができた弟に対して尊敬の念を抱いていた。

「あのさ、星也」

「なに?」

「お前、どうして学校辞めたんだ?」

 弟は、考え込むように視線を上にやると腕を組んだ。

「なんて言えばいいかな。一言で言うとさ、不自然に感じたんだよね」

 俺は、弟の次の言葉を待った。

「なんかさ、学校行くのが当たり前だし、就活して会社に勤めるのが当たり前だし、確かにそうしたら、良い会社にいけてさ、良い給料もらえるかもしれないし、周りから、すごいね、なんて言われて良い気分になれるかもしれないけどさ。すごく不自然だなって、思ってさ」

「よくわかんないな」

「なんていうか。生きていくにも順序っていうものがあってさ。ほら、たとえば、ゲームとかやってもさ、基本操作からやらないと分からなくなるでしょ? あんな感じで、ほんとは、一からやらないといけないんじゃないかって思うんだよ。つまり何もない状態からさ。だけど、高校とか大学とか行って会社勤めっていうとさ、最初からいろいろ準備されていて、それって一からじゃないんだよね。二とか三から始まっていてさ。それだと、大事な部分を落としてきちゃうんじゃないかなって思ったんだよ。もちろん、否定してるわけじゃないよ。ぼくがっていう話ね」

「難しい事を言うな」

「でも、きっとさ。ぼくは働ける場所も限られてくるから、このまま地元の洋食屋で働くのかもしれないけど、きちんと学校出てきちんと就職すれば、なんの引け目もなく、もちろん金銭的にも余裕のある生活ができるんだろうけどね。だけどさ……」

 弟は、小さく息をついた。一瞬、表情が曇ったように思えた。

「だけど、なんか、誰かに飼われてるみたいじゃない? まるでさ」

「そんな風に思ったことは、ないけどな」

「そうだよね。ごめん。変なこと言って」

「いや、いいけど」

 弟が何を言おうとしたのは俺にはよく分からなかった。

 昔から変な理論で変なことをする弟だったので、いつものやつかなとも思ったが、どうも違う気もした。弟はきっと、真剣に考えたのだろう、そして、何かの結論に至っただろう、と思った。

 結局、弟は、その頃から、数年間そして現在も、その洋食屋で働いている。今では、オーナーと一緒に厨房に立って料理をしているし、弟のつくるナポリタンは絶品だった。

 俺は、大学をなんとか卒業すると、IT系の会社に就職した。会社の人たちと飲み会で話をしている時に、「弟が中卒だ」というと、みんなが驚く。それはきっと、弟が昔言っていたように、学校を出ることが当たり前になっているからなのだろう。

 ある時、課長に、弟の話をした。課長は「弟さんの言う通りだな。最近の連中は、なんでもあるのが当たり前なんだよな。ITだってそうだよ。昔はなかったんだ」と苦笑いしていた。

 毎日働いてはアルコールで体を癒す生活を送っている中で、時々、ほんとうに時々、弟の言っていたことについて考えることがある。

 学校を卒業して、会社に勤めている俺は、一体何を落としてきたのだろうか?



 了

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