短い涙


 僕は、仕事終わりに三十分は車を運転するようにしている。

 家に帰るだけなら車で十分とかからない。わざと遠回りをして、車を走らせるのだ。だいたい三十分程度。長いときには一時間以上走っているときもある。

 理由は特にないけど、僕はこの時間が好きだった。

 運転しているときには、だいたい、音楽を流している。車には、二十枚以上CDを常備していた。《サザンオールスターズ》《ミスターチルドレン》《宇多田ヒカル》《山崎まさよし》《齋藤和義》。あまりニッチなジャンルは聞かない。まだ、小学生か中学生か高校生だったころに聞いていた歌ばかりだ。

 時々は、ラジオをつけたりもする。でも、ラジオから最近の音楽が流れ始めたら止めてしまうことが多い。

 仕事から帰る時間は、だいたい日が沈む頃で、オレンジ色の光に目を細めながら、音楽を聞く。あるいはラジオを聞いた。

 今日も僕は、仕事が終わると、車に乗り込んで、グローブボックスを開け、CDを選んだ。悩んだ挙句、何も取らずに、閉めた。ラジオを聞くことにした。

 

 ――つまりは、ブームは過ぎ去るってことですね。

 

 男性のラジオパーソナリティが言った。いつも聞いているFMラジオのチャンネルだ。

 

 ――私もね。結構飽き性で、小さい頃から習い事をコロコロと変えていたんですよ。ほんと、いろいろなことやりましたよ。卓球に、サッカーに、剣道に、習字に……あ、習字は、体験教室で辞めたんだ。だから、習字は習ってないですね。まあ、とにかく、たくさんの、ことをやってはやめましたね。

 

 僕は、ラジオを音楽のように聞いた。

 言葉の一つ一つの意味を汲み取ろうとはしない。自然に耳に入ってくるのに任せて、意識は運転に集中していた。だから、パーソナリティが言っている内容はほとんどわからなかった。僕にとっては、内容よりも声が重要だった。この番組のパーソナリティは声がうるさくなく、静かすぎずちょうど良いのだ。小さい頃、布団の中でウトウトしながら、居間で話している両親の会話が聞こえてくる感じに似ている。内容はわからない。けれでも、誰かの声に安心する。

 県道をしばらく走り、二四六号線に出る。この時間の二四六号線は混んでいた――というよりも、この道がすいていることなんてない。渋滞の中でトロトロと車を走らせた。でも、別に構わない。急いでいるわけでもない。むしろ渋滞の方が好都合だった。集中して運転しなくて済む。

 

 ――寄り道も大事だなって思うんですよ。この前、帰り道に、なんとなくいつもと違う道を歩いたら、なんかいい感じのバーを見つけたんですよ。まあ、入らなかったんですけどね。

 

 ラジオパーソナリティーが言った。

 何も考えず、夕日を浴びていると、いろいろなことがソーダ水の泡のように、ぽつぽつと浮かんでは消えていく。まるで、CMみたいに次々と入れ替わる記憶を楽しんだ。

 なんの脈絡もない記憶が、鮮明に蘇ってくる。それは、学生の頃に、同じクラスだった女の子の記憶だった。話したことはあるがそこまで親しくしていたわけでもなく、特別何かがあったわけではない。ある雨の日に、その子が自動販売機の前でお金を取り出そうと財布の中を探っていた。ふと顔を上げた時に、その子が僕に気がつき、呼び止めた。

「ねえねえ。十円貸してくれない?」

「いいよ」

 僕は、何気なしに十円を渡した。

「ありがとう」

 その子は、雨なんて吹き飛ばしそうなほど明るい笑顔で言った。

 次の日、その子は小さなポチ袋に十円を入れて、持ってきてくれた。そのポチ袋には、黒猫の絵が描かれていた。いかにも女の子らしいデザインだった。

「別に、十円くらいいいのに」

 僕は言った。

「ほんとにありがとう。助かったよ」

 彼女は、そう言って、また笑顔を見せた。

 家に帰って、ポチ袋の中を見てみると、十円玉と小さな手紙が入っていた。そこには、『十円サンキュー。マジで感謝』と書かれていた。

 僕は、その子にとても好感を持ったが、どうしてか、こちらから話しかけたり、遊びに行ったりすることはなかった。最後まで、挨拶を交わす程度の仲でしかなかった。

 どうして、急にそんなことを思い出すのだろうか? 記憶が僕に何かを訴えかけているのだろうか?

 僕は、国道沿いのコンビニに入った。

 コンビニで、ハムのサンドイッチと缶コーヒーを買った。車の中で、ラジオを聞きながら食べた。こんな風にして間食するのは体に良くないだろう。しかし、この時間が好きなのだから仕方がない。

 僕は結婚をしているわけでもなければ、実家で暮らしているわけでもない。

 もう三十歳を超えてしまったが一人暮らしをしている。一人暮らしを嫌と思ったことはないし、一人がさみしいとも思わない。僕には、以前恋人がいた。その人は、とても端正な顔立ちの人で、僕にはもったいないような女性だった。友人からも「どうしてお前なんかと」とよく言われた。そんな彼女は、僕と結婚したいと言ってくれた。だけども、僕は独身でいることを選んだ。彼女に不満があったわけではない。彼女の名前は、美咲という。お上品な名前で、その名前の通り彼女は、上品だった。笑うときは大体口に手を当てたし、おしぼりで手をふくときには、丁寧に慎重に手を拭いていた。かといって、その上品さを人に求めることもなく、僕は好きなようにふるまうことができた。

 ある時、美咲が、僕の料理を食べたいといったことがあった。普段、わがままのようなことを言ったことのない美咲の頼みだったので、僕は料理を作ることにした。それに、僕も美咲のことがもちろん好きだったし。喜ぶ顔を見たいとも思った。

 その日、僕は休みで、彼女は仕事だった。

 彼女が仕事をしている間に、買い出しに出かけて、夕食の準備をすることにした。しかし、買い物カゴを持って、スーパーを一周したころには、僕は困り果てていた。もっと早くに気づくべきだったのだが、僕は、彼女に食べさせるような料理を作ったことがない。いつも自分が食べるためだけに作る。それは本当に、シンプルなもの。ブロッコリーを湯がいたり、ウィンナーを焼いたり、セロリをかじったり。とても料理と呼べるものではない。

 一時間が経ち、二時間が経ったころ、ようやくあきらめがついて、僕は、セロリとブロッコリーとウィンナーを買った。

 家に帰ると、もうすでに夜になっていた。

 セロリを一口大にカットして、ブロッコリーを湯がいた。それから、ソーセージを焼いた。準備はすぐに終わった。

 ちょうど美咲が帰ってきた。

 僕は、多少緊張しながら、彼女の反応を待った。

「私を猫だと思っていたの?」

 と言って、彼女は笑った。

 僕は、ホッとして、「ごめんね。料理なんてしたことないんだ」と言った。

 冷蔵庫からビールを取り出して、二人で飲んだ。ブロッコリーにはたっぷりとマヨネーズを付けた。

 美咲は、意外にも、これらの料理を、気にいってくれたみたいで、にこにこと笑いながら食べてくれた。彼女は、ブロッコリーにこぼれるくらいにマヨネーズを乗せて、かぶりついた。その食べっぷりがあまりにも印象的で、鮮明に覚えている。小さな口を精一杯に開けて、かぶりつく。口の端には、マヨネーズがついて、それを気にも止めずビールを煽る。

 セロリも、嫌な顔一つせず、がりがりと齧った。ウィンナーもパキッといい音を立てて、食べた。本当に、見惚れてしまうほどだった。

 お腹いっぱいになるまで食べると、僕らはセックスをした。それも何度も。

 この時、僕は、彼女を確実に愛していた。

 汗だくになって、疲れ果てると、僕はビールを飲んだ。

 それから、二人でベッドに横になって、いろいろな話をした。料理にまつわる話。塩味の効いていない鶏肉はおいしくない、とか。卵は固ゆでがおいしい、とか。皮をむいたきゅうりはおいしくない、とか。彼女は、「作れないのに、評論はできるのね」と言って笑った。

 そして、だんだんと眠くなってきて、いよいよ眠ろうと思った時、彼女は、ベッドから出てトイレに入った。僕はただ単に、もよおしたのだろう、と思った。しかし、彼女は、あろうことか、激しい音を立てて嘔吐したのだ。まるで体の中の全て内臓をぶちまけているみたいな激しさだった。それも、何度も、何度も。

 全てを出し終えて、トイレから出ると、彼女は、洗面所でうがいをして、ティッシュを三枚とって、鼻をかんだ。もちろん、僕は目をつむっている。開けようと思ってもきっと開けられなかっただろう。とてつもなく怖かったのだ。どうして嘔吐したのかはわからない。ビールの飲みすぎかもしれない。ただ、僕の頭によぎったのは、彼女は、無理して僕が用意したものを食べたのではないか、ということだった。だから、とても怖かったし、できることなら、このまま寝ていることにして、何事もなく朝を迎えたかった。そうすれば、都合よく、夢と記憶がごちゃごちゃになって、どうでもよくなっているかもしれない。

 彼女はベッドに戻ってくると、僕の脇腹をつついた。まるで寝ているかどうかを確かめているかのようだった。僕は、寝ているふりを決め込んだ。

 そのうち彼女は小さな寝息を立てた。

 次の日の朝、僕に向かって、彼女は「昨日のごはん、おいしかったね。また作ってね」と言った。

 美咲に対して、あまりポジティブとは言えない感情を抱いたのは、たったの一度で、この時だけだった。

 それなのに、僕は、彼女との結婚を拒否した。それは、僕のためでもあり、なにより彼女のためだった。その理由に、僕が、彼女との結婚を断った時に、彼女は「そう……残念」と言いながらも、どこか安堵しているようにも見えた。

 気が付くと、ラジオからビートルズが流れていた。

 ビートルズは、好きだ。

 僕は、ハムのサンドイッチを食べ終えて、車を発進させた。

 また、渋滞の列に戻ると、少し進んでは止まる、を繰り返した。

 

 ――ビートルズっていうのは、ほんとに色褪せないですよね。いつ聞いても、いいな、って思うんですよね。ただね、ビートルズを聞いた時には、いつもメンバーの名前を思い浮かべてみるんですけど、ポール・マッカトニー、ジョン・レノン、リンゴスター、それで、あと一人が出てこないんですよね。不思議とオノ・ヨーコが頭に浮かんでくるんですよ。

 

 僕も、ビートルズのメンバーを思い出してみた。でも、あと一人が、どうしても出てこなかった。

 夕日はもうすぐ沈みそうだった。

 赤い色は、一番強くなっていた。

 僕は、思わず通りかかったホームセンターの駐車場に車を止めた。別に、ホームセンターに用があったわけではない。

 車から降りると、夕日を眺めた。

 とてもとても強い光だった。

 まるで、眼球が奥に押し込まれてしまうのではないかと思った。

 色は、どんなものよりも赤く、夕日とは思えないくらい鮮やかな色だった。

 僕は、ふと思った。

 今、感動している、と。

 そして、次の瞬間、そう思った自分に虚しくなった。

 はっきりと、「感動している」と思ってしまったのだ。

 まだ、顔にニキビをつくっていた学生の頃、こんなことがあっただろうか? いや、なかったに違いない。あの頃の僕だったなら、自分が、夢中になっていることさえ気がつかないくらいに、感動しているなんて、考える暇もないくらいに感動しているはずだ。

 いつからか、全てを自分の頭で感じるようになった。

 嬉しく思っている。悲しく思っている。辛く思っている。感動している。

 全ては、僕の脳内で起きていることだと、自覚するようになった。

 確かに、今も圧倒的な赤色の夕日を見て、綺麗だと思い、感動している。

 それなのに、どうしては心の半分は、いたって冷静だった。

 まるで、いつも何かの中から外を見ているようだった。

 僕の目には一滴の涙が溜まり、そして、落ちた。

 ただ、その涙はあまりにも短く、ストンと地面に落ちた。



 了

コメント

  1. めちゃよかったです。
    もうずっと改まって本を読む時間も取れていなかったのですが、これくらいの量、本当に息抜きにピタリです。
    短いのにとても入り込めて、表現がとても好きだったし、余韻も心地よくて、、
    時間のことは忘れて他の作品も気になって一気に読んでしまいたかったけど、なんだかもったいなくて、やっぱり今日は一つにとどめました。

    これからこちらのブログの更新を楽しみにしています。

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    1. コメントありがとうございます!

      ブログ管理者の佐田おさだです。

      こんな嬉しいコメントをいただけるなんて、驚いております。
      書く速度遅いのでなかなか更新できないかもしれませんが、頑張ります。

      ありがとうございました!

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