ガラス



  病院の帰りに、そば屋に立ち寄った。

 宮治幸助は、腹を空かせていたし、母は、腰を落ち着かせてゆっくり話をしたいと思っていた。

「先生に何て言われたの?」

 母が言った。

「食べないの? のびるよ」

 幸助は、そばをすすりながら言った。

「ちゃんと話してくれる」

「ちゃんとって何を?」

「先生に何て言われたの?」

 母は、ため息をついてもう一度同じ質問をした。

「べつに、たいして話してないけど……。『悩みはあるのか』って聞かれた」

「それで、あんたはなんて言ったの?」

「……窓ガラスの位置が悪くて、部屋に日が入ってこないことが悩みですって言った」

 母は、またため息をついた。

「もう、いいわ」

「ああ、そう」

 幸助は、そばのつゆがしみ込んだエビの天ぷらを食べようとしたが、なかなかつかむことができなかった。幸助の右手は、ケガをしていて、何重にも包帯がまかれている状態だった。

 母もしばらくは黙ってざるそばを食べた。

 しかし、それもそんなに長くは続かず、数分したら、母はまた口を開いた。

 幸助は、母のそういう我慢できないところが嫌いだった。

「他には、先生から言われたことはないの?」

「そうだね……『次の人』って言われた」

「ふざけないで」

「だから、そんなに話してないって」

「本当に、他には話してないの?」

「まあ、強いて言えば、『どうしてそんなことをしたのか?』って聞かれた」

 母は、無言で頷いた。それから「それで?」と言った。

「ムシャクシャしてからって答えた」

「どうしてムシャクシャしてたの?」

「それも先生に聞かれたよ」

「それで、どうしてムシャクシャしていたの?」

「あの時は、お腹が空いてたんだよ。それに、隣の家のクソ下手クソなピアノの音がうるさかったからね」

 母は、橋をお盆に置いた。かすかにその手が震えていた。

「それで、ガラスを割ったの?」

「そうだね」

 幸助は、どんぶりを両手で持って、汁をすすった。

「たったそれだけで……信じられない……」

 母は、言った。

「先生は『気持ちは分かる』って言ってたよ」

 二人の会話は途切れた。

 幸助は、早々にそばを食べ終えてしまい、母の箸がなかなか進まないことに、やきもきした。母は、一口食べては、深いため息をついた。時々、ピタッと手を止めてしまうこともあった。

 結局、十分以上、母が食べ終わるのを待つことになった。

 幸助も、母と同じで、我慢ができない性分だった。正直、イライラしていた。ともすれば母を殴ってしまいそうだった。

 爪が食い込むぐらいに、グッと強く手を握り、激しく貧乏ゆすりをしながら、それだけは、なんとか堪えることができた。

 

 

 家に帰ると、幸助はすぐに自分の部屋に向かった。

 一昨日割ってしまった窓ガラスは、すっかり直っていた。

 父が業者を呼んでくれたみたいだ。

 新しい窓ガラスは、見違えるくらいに透き通っていて、景色がとてもクリアに見えた。外はまだ明るく、今までは気にも留めなかった部屋からの景色が新鮮に見えた。道路を挟んで向かいの家の屋根に小鳥が止まっていた。キョロキョロと周りを見渡して、飛び立っていった。

 幸助は、窓から視線を外すと、鞄から、さっき病院でもらった薬を取り出して、ごみ箱に投げ入れた。

 それから、机の引き出しから、ポテトチップスを取り出して、食べた。

 何もすることがなく、雑誌をパラパラとめくってみたり、テレビをザッピングしてみたり、SNSで『ポテチ、うまし』と投稿してみたり、ネットサーフィンをした。

 しばらく、そんなことをしていると、外からピアノの音が聞こえてきた。

 幸助は、舌打ちをして、部屋から出た。

 リビングに行くと、父親が帰ってきていた。

「おかえり」

「ただいま」

「今日は早いね」

「まあね。今日は一緒に飯食うか?」

「いいよ」

 父は、にっこりと笑って、「よし」と言った。

 幸助は、父の笑顔を見て、顔をしかめた。頭の中で、父の顔に唾を吐きかけるところを想像した。

「あのさ、また、隣の家からピアノの音がするんだけど」

「そうか……でも、それは仕方ないよな」

「いい加減にしてほしいんだけど。もっと上手かったらいいんだけどさ。クソ下手クソだからさ。耳が取れそうなんだよ」

「そうは言ってもな」

「久石譲みたいに上手だったらいいんだよ。ていうかさ、久石譲レベルになるまで、ピアノなんて弾くなよ」

「そうなるために練習してるんだろ?」

「いや、だからさ、人の聞こえるところで練習するなってこと。そんなの害悪だろ。もっと地下室とかさ、スタジオとかさ、そういうところでやれよ」

 父は、ため息をついた。

 幸助は、俺が話をすると決まってみんなため息をつくな、と思った。

「まあ……そうだな。とりあえず、リビングなら、お前の部屋よりは音が聞こえないから、しばらくここにいたらどうだ? ご飯の前に、少し酒でも飲むか?」

「ああ、もらうよ」

 幸助は、冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。缶のプルタブを開けるときに、右手が使えず多少苦労したが、なんとか開けることができた。

 一口、二口と飲んで、すぐに一本空にした。そしてもう一本取り出して、開けた。

「そんな飲み方はやめろ。体に毒だぞ」

「いいだろ。別に。どう飲んだって、毒であることには変わりないよ」

 父は、もう一度ため息をついて「好きにしろ」と言った。

 幸助は、言われた通り、好きにすることにした。

 ビールを飲みながら、冷蔵庫に入っているものを勝手に取り出して食べた。豆腐や、チーズ、セロリを食べた。

 そうこうしていると、母が買い物から帰ってきた。

 幸助が、顔を赤くしてビールを飲んでいる姿を見て、母は大声をあげた。

「何してるの!」

「え?」

「あんた、何してるの! 勝手に冷蔵庫あさって」

「ダメなの?」

「いいわけないでしょ!」

「何も食べないで酒飲めないんだよ」

「もう、ほんとに、いい加減にしてよ!」

 帰ってきて早々怒鳴り散らして忙しい人だな、と幸助は思った。

 母は、ぶつくさ言いながらも、夕飯の支度をした。

 夕飯ができるまで、幸助はビールを飲み続けた。夕飯ができた時には、だいぶ酔いがまわっていた。

 今日の夕飯は、生姜焼きだった。あとは、大根の味噌汁と、白菜の浅漬け、筑前煮がテーブルに並べられた。

「よし、飯にするか」

 父が言った。

 誰も返事をしなかった。

 母は、不機嫌そうに、黙々とご飯を食べ始めた。

「幸助は、明日は仕事か?」

 父が言った。

「仕事? 辞めたよ」

「もう辞めたのか?」

「あれ、言わなかったっけ?」

「聞いてないな。なんで辞めたんだ?」

「だってあんな仕事つまらないから。パチンコ屋の換金なんて暇すぎてやってられないよ」

「いや、お前が、楽な仕事がいいからって選んだんだろ?」

「まあ、そうだけど……。これに関しては父さんが正しかったよ。俺には、あんな仕事無理だったよ」

 そう言いながら、幸助は、生姜焼きだけを食べた。そして、ビールを飲んだ。

 父も黙り込んでしまった。

 幸助は、この酸素濃度が極端に低いみたいな空間に、だんだんイライラとしてきた。このままだと、机をひっくり返してしまいそうだった。生姜焼きを食べ終わると、「ちょっと出かけてくる」と言って、外に出た。

 外は、涼しかった。

 夏も終わりに近づいていて、心地の良い気温だった。

 夜風が、昼間に熱せられたアスファルトを冷やすように、幸助の気持ちを少し落ち着かせてくれた。

 五分ほど歩いたところにあるコンビニに入って、コーヒーを買って、飲んだ。少し酔いがさめてきて、また、お酒を飲みたくなった。

 さらに、歩いて、駅の方へ向かった。駅前には、いくつか飲食店があった。

 幸助は、一人でも入りやすそうな、赤ちょうちんが出ている居酒屋に入った。

「いらっしゃい」

 大将が、笑顔で言った。人の良さそうな顔つきをしていた。

 幸助は、カウンターに座ってビールを注文した。

 店内には、幸助以外にもあと数人、常連客と思われる男性客がいた。

 ビールが来た時に、ソーセージと唐揚げを注文した。

 ビールはよく冷えていておいしかった。SNSで『ビール、うまし』と投稿してみた。

 一人で、ビールを飲むのは非常に心地よかった。何も気にする必要がない。また、唐揚げやソーセージなど好きなものだけを食べられるのも良かった。もしも、母が一緒だったら、栄養がどうのこうの、コレステロールがどうのこうのと言われているところだ。

 しばらく、一人でビールを楽しんでいると、カウンターに座っている男性客に声をかけられた。

「兄ちゃん。手、どうしたの?」

 男性客は、ニコニコと笑っていて、幸助に好意的な視線を向けていた。

 そのせいか、幸助も、話しかけられたことに悪い気はしなかった。

「あ、これですか?」

 そう言って、包帯にまかれた手を見せた。

「けっこうなケガだね」

「これね。ガラスを割ったんですよ。そのときに、切っちゃいまして」

「へえ。お兄ちゃん、見た目に似合わず、過激だね。ケンカでもしたの?」

「まあ、そんなところです」

「今時、ケンカなんて珍しいね」

「そうですか?」

「俺が、兄ちゃんくらいの時は、しょっちゅうケンカなんかしていたけどね。ねえ、大将」

 男性客は、大将に向かって言った。

「そうですね。いつもどこかしらケガをつくってましたよね」

「そうそう。お兄ちゃん。この大将もこう見えてケンカ強いんだよ。逆らわねえほうがいいぞ」

「やめてくださいよ。そんなことありませんよ」

 大将はそう言って笑った。

 幸助も、なんだか楽しい気分になった。

「それにしても、今の若者は軟弱だよな。兄ちゃんもそう思わねえか?」

 男性客が言った。

「そうですよね。いまいちパッとする人がいないんですよね」

「そうなんだよ。すぐに、弱音吐いてよ。ほんと情けねえよ」

「ほんとですよね」

「ちなみに、兄ちゃん、仕事は?」

「この前まで、してたんですけど、辞めちゃいました」

「辞めちまったのか? それは、良くねえな」

「まあ、仕方なかったんですよ」

 幸助は、グイっとビールを飲み干して、もう一杯注文した。

 男性客は、「んん」とうなりながら腕組みをした。

「仕方ないってのは、何か、殴り合いのケンカでもしたのか?」

「まあ、そんなところですよ」

 新しいビールを幸助は、一口飲んだ。相変わらず冷えていておいしかった。

「まあ、でも、ちょっと、良くねえな。周りとうまくいかねえからって辞めちゃいけねえよ。バチバチやりながらでも、グッと堪えるんだよ。じゃねえと負けたことになっちまうよ」

「それはどうですかね? 別に、仕事辞めたからって負けじゃないでしょ」

 幸助は、ずいぶん酔っぱらっている様子で、ろれつが回っていなかった。

「まあ、そうだな。確かに、兄ちゃんの言う通り、負けとか勝ちではないな。だけどなんて言うかな……。ちっとは我慢することも必要だろ?」

「そうですかね?」

「違うのか?」

「違うと思いますよ。嫌なら、辞めたらいい。嫌なことをやる必要なんかないでしょ?」

「嫌だからって辞めてたら、飯が食えねえよ」

「そうそう。おじさんくらいの年代の人はすぐそれを言うんだよね。『どうやって飯を食うんだ』ってさ」

 幸助は、さらにビールを仰いだ。

 自分でもだんだん口調が荒くなっていることは分かっていたが止められなかった。

「二人とも、止めてくださいよ。他にもお客さんがいるんだから」

 大将が、困った顔で言った。

「まあ、すぐに止めますよ」

 幸助が言った。

「ちなみに、兄ちゃんは、その飯代はどうしてるんだ? まさか、親からもらっているわけじゃないよな」

 男性客は、いたって冷静に話をしていたが、その言葉には、不愉快さがにじみ出ていた。

「ええ。もちろん、そうですよ。親のお金です」

「それは、どうなんだい?」

 男性客は「それ見たことか」と言わんばかりに、声が大きくなった。

「だから、なんですか? 仕方ないじゃないですか? 仕事してないんだから」

「何を偉そうに言っているんだよ」

「だいたい、俺の家の事なんだから、あんたには関係ないでしょ?」

 男性客は、ため息をついた。

「まあ、そうだな。人の家のことに首を突っ込むのは、少し野暮だな。悪かったな」

 そう言って黙り込んだ。

 幸助も、言葉を飲み込んで、ビールで流し込んだが、イライラがおさまらなかった。わざと大きな音を立てて、グラスを置いた。

 数分しんと静まり返ったが、幸助は、自分を押えることができず、口を開いた。

「だいたい、おかしいんだよ」

 男性客は、聞いてないみたいに、まっすぐ前を向いていた。

「働いてる人が正義みたいな感じでさ。でも、そう言う時代じゃないっていうかさ……」

 幸助は、ふと自分がしゃべり過ぎていることに気が付いて、口を閉じた。

「とにかくさ……。なにかも全部、くだらないんだよ」

 幸助は、ビールを流し込んだ。

 もう帰ろう、と思い立ち上がると、隣の男性客に呼び止められた。

「おい。兄ちゃん。奢るからよ。もう一杯飲んでけよ」

 幸助は、一瞬迷って、もう一度席に座った。

「何、飲む?」

「じゃあ、ビールで」

「大将、ビール一つ。この兄ちゃんに」

 大将は、無言でビールを入れた。幸助は、受け取ると、一気に半分ほど飲んだ。

「なんですか?」

 幸助が言った。

「いや、まあ、もうちょっと話そうや」

「いいですよ」

「俺な。正直、最近の若者が、よくわからないんだよ。実は、うちの息子も、兄ちゃんくらいの歳なんだが、仕事してないんだ。俺は、自分で稼げって言って突き放してるんだが、どうやら、母ちゃんが金渡してるみたいなんだな。俺もどうしたらいいものか、頭抱えてんだよ」

「そうですか」

「何が不満なんだ? 俺にはわからないんだよ」

 男性客の言葉には、確かな切実さがあった。

「そんなこともわからないから、ダメなんだよ」

 幸助は、意気揚々と言った。

「そうか……ダメか」

「ああ、ダメだね。大人どもが、そんなボンクラばっかりだから、子供たちが迷うんだよ。ちゃんと理解してもらわないと。俺には、わかるよ。その息子さんの気持ち」

「どういう気持ちなんだ?」

「どうして、なんでもかんでも聞くのさ? たまには自分で考えないと」

 幸助は、これでもかと言わんばかりに、大げさな身振りで、言った。

 男性客は、考え込んでいるようで、腕を組んで、黙り込んだ。

「大の大人がさ、若い人たちを大切に出来ないんじゃ、日本も終わりだよね。というか、もう終わってるか」

「まあ、なんていうか……兄ちゃんは、もう、働かないのか?」

「また、その話? 働くとか働かないとか、そういうことじゃないじゃん」

「じゃあ、どういうことなんだ?」

「これだから、頭の固い人は嫌だよ。わからないかな……まったく」

 幸助の頭の中は、熱くヒートアップしていた。

 普段、吐き出すことのできない感情を酔いに任せて、言葉にしてみて、でも正直なところ、自分でも何を言っているかわからなくなっていた。ただただ、何かが違う、と思った。目の前にいる男性客の言っていることが、違う、と思った。ただそれだけだった。

「ありがとうな」

 男性客が言った。

「は?」

「兄ちゃんと話して、なんとなくわかったよ」

「何が?」

「なあ、兄ちゃん」

 男性客は、体の向きを変えて、幸助の目を見た。

 幸助は、男性客の次の言葉を待った。

「怖がることはないんだぜ」

「は?」

「誰も、兄ちゃんの敵じゃない」

「なんだよ。わけわかんねえ」

「まあ、つまりだな。そんなに自分を守る必要はないってことだ。何をしても、誰も責めやしないよ」

 幸助は、黙ってビールを飲んだ。

 正直、言っている意味が分からなかったのだ。何か言ってやりたい気持ちもあったが、言葉が出てこなかった。

 再び、お店は沈黙した。

 ビールを飲み干して、幸助は席を立った。

「あの……ごちそう様でした」

「いいってことよ。帰って、早く寝な」

 幸助は、お店を出た。

 家までの道中、男性客に言われたことを考えてみたが、どういう意味なのかよくわからなかった。

 

 

 家に着いた頃には、十時を過ぎていた。

「遅いじゃない」

 母が言った。

「そう?」

「あんた、またお酒飲んできたの?」

「まあね」

 そう言って幸助は自分の部屋に向かった。

 ベッドに身を投げると、視界が回りだして、ずいぶん酔っぱらってしまったことに気がついた。

 外からは、ピアノの音がかすかに聞こえた。

 不思議とこの時は、そんなに腹も立たなかった。



 了

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