はしご
夕方六時。今の時期は、この時間ですでに外は暗い。雹が降り出しそうなほど、空気が冷たい日だった。
オフィスでは、小宮が一人だけパソコンに向かっている。
数文字打ち込んでは、すぐに目頭を指でつまんだ。そして熱いコーヒーを一口飲む。その動作を繰り返していた。コーヒーはこれで三杯目。疲れたと思ったらスマートフォンを眺めた。
時間はどんどん過ぎていくが、仕事はそれほど片付いていかなかった。
「まだ、残業?」
同僚の西田がオフィスに入ってきた。
「お疲れ」
小宮が言った。
「ああ、お疲れ」
「お前こそ、今戻ってきたの?」
「とっくに仕事は終わってたんだけど、営業終わりにパチンコしてしてたんだよ」
「勝った?」
「勝ったよ」
「いくら?」
「二万くらい。奢ってやるよ。めし食いに行こうぜ」
「まだ、仕事だよ」
小宮は、そう言って、パソコンに視線を戻した。
「あと、どんくらいで終わる? 待っててやるよ」
「あと一時間はかかるよ」
「じゃあ、もう一回パチンコ行ってくるわ」
西田は、事務所から出て行った。
小宮は、またパソコンを打ち込んでは目頭を押さえた。それからコーヒーを飲んだ。その一連の動作を幾度となく繰り返した。
結局仕事がひと段落するころには八時になっていた。コーヒーは五杯を越えていた。
小宮は、西田に電話した。
「仕事終わったけど、今どこ?」
「俺も丁度終わったから、今そっちに行くわ」
ガヤガヤとうるさい音が聞こえた。どうやらまだパチンコ屋にいるみたいだ。
会社の外で待っていると、西田が小走りにやってきた。
「今日もお疲れ様ですね」
西田が言った。
「勝ったか?」
「負けたよ」
「いくら?」
「三万」
「マイナスだな」
「だから、奢ってくれ」
「お前な……。まあ、いいけど」
どの店に行くか、あれこれ話して悩んだ挙句、近くの《王将》に入った。
最初に、ギョーザと唐揚げとビールを二人分頼んだ。
ビールが来ると、一気に半分ほど飲み干した。
「明日休み?」
西田が言った。
「休みだよ」
「珍しいな。休日に休みなんて」
「何言ってんだよ。休日は休みだよ」
「この前、日曜に出勤してただろ」
「あれは仕方なくだよ。いつもじゃない」
「なんだか、大変そうだな。そんなに仕事量多いのか?」
「けっこうきついよ」
「でも、お前以外残業してないぞ」
「だから、俺に全部押し付けてんだよ。それに、みんな適当だからな」
「そっか」
餃子と唐揚げをほおばりながらビールを飲んだ。すぐにグラスは空になり、二人ともビールをおかわりした。さらに追加で天津飯とニラレバ炒めを注文した。がつがつとすぐに食べ終えた。二人とも腹が減っていたのだ。
「店変えるか?」
小宮が言った。
「まあ、ちょっと待てよ。まだ飲み終わってない」
西田はそう言って、グラスを仰いだが、ビールが一センチほど残った。
「なんかうまい酒飲める店知ってるか?」
西田が言った。
「そうだな……。なんか、駅前に新しく海鮮系の居酒屋ができたらしいよ」
「魚介、いいね。ホタテ食いたいな」
「じゃあ、次そこ行くか」
「よし」
西田が、グイっとビールを飲み干した。
お会計は約束通り、小宮が払った。それから、「次から割り勘な」と釘を刺した。
店を出ると、外は異常に寒かった。雪女の腹の中みたいだった。
次のお店に向かう道中、小宮が言った。
「不思議だと思わないか?」
「何が?」
「社会人になってから、酒ばっかり飲んでるよ」
「普通だろ」
「死に物狂いで勉強して大学入ってさ。ノイローゼ気味になりながら就活して、気がついたら酒ばっかり飲んでる」
小宮は、全国的にも有名な国立大学を卒業していた。それに就職活動の時も、誰よりも真面目にインターンシップに参加していた。
「どうしたんだよ? なんか、悩みでもあるのか?」
「悩みね。別にないんだけどね」
「あんまり考えるなよ。悩むのは毒だぞ。それに、酒ばっかり飲んでるわけじゃないだろ?」
「そうか?」
「パチンコもしてる」
「それはお前だよ」
駅前のお店に到着した。
店の中は、暖房が効いていて暖かかった。
最初にビールと貝のお刺身を注文した。
「貝はうめえな」
西田が言った。
「貝はうまいな」
貝のお刺身を食べながらビールを飲んだ。最高だった。
「あのさ、お前、もしかしてやる気失くしてる?」
西田が言った。
「急に、なに?」
小宮が言った。
「いや、別に」
数秒間おかしな沈黙ができた。ただ単に、西田の唐突な質問に面食らっただけのようでもあったが、その数秒の沈黙にはある種の気まずさが含まれていた。答えたくないことを聞かれた時のようだった。
「やる気って?」
小宮が言った。
「仕事に対してさ」
「やる気ある奴なんているの?」
「まあ、いないかもしれないけどさ」
「やる気なんてあるわけないだろ」
小宮は、こいつは何を言っているのか? という呆れた表情をつくった。
「じゃあ、なんで仕事してるんだ?」
西田の口調は淡々としていた。問いただすような言い方ではなく、純粋に疑問という感じだった。
「なんでって、金もらうためだよ」
「じゃあ、なんでそんな悩んでんの?」
小宮は、一瞬何かに刺されたように目を丸くして沈黙した。それから「だから悩んでないって」と言った。
「ウニでも食うか?」
西田が言った。
「いいね」
ウニの軍艦巻を注文した。それから日本酒も頼んだ。
「ウニにはやっぱり日本酒だな」
「確かに」
ウニと日本酒をしっかりと堪能したところで、「次、どこ行く?」と西田が言った。
「まだ行くのか?」
「行かないのか?」
「行くよ」
二人は、次はどこの店に行くのかを話し合った。
結局、近くのバーに行くことにした。お腹は満たされているので、うまい酒が飲めれば十分だった。
日本酒を飲み終わると、店を出てバーに向かった。歩いて五分ほどで着いた。店内にはジャズが流れていて、柑橘系の芳香剤の匂いとアルコールの匂いが同時に鼻をついた。
「ここに来るの久しぶりだな」
小宮が言った。
「そうだな」
「とりあえず、何飲む?」
「ハイボール」
「俺も」
二人は、ハイボールを飲んだ。すぐに一杯目を開けて、二杯目を注文した。
「最近、仕事はどんな感じ? うまく行ってるの?」
小宮が言った。
「まあまあだね」
「営業成績がけっこう良いって評判になってたぞ。先月なんて、全社で十番以内だったって」
「まあ、確かに、先月は割とよかったな。でも、波があるよ。お前はどうなんだ?」
「いや、ほんと面倒な仕事ばっかりだよ」
「大変そうだよな」
「まあね」
「残業多いんだろ?」
「周りが仕事しないからね。シワ寄せが来るわけだよ」
「そうなんだ。他の人に頼めないか?」
「そう簡単にいかないよ。大体、会社のシステムがダメなんだよ」
「そうなのか?」
「そう思わないのか?」
小宮は、そう言って、ハイボールを飲み干して、もう一杯注文した。酔いがまわってきたみたいで、顔が赤くなっていた。
「まあ、確かにな」
西田が言った。
「ほんときついわ。つかえねえ奴ばっかりでよ」
「そうか? お前の上司、できる人だと思うよ。この前、飲み会で話したけど、結構周りに気を使ってるよな」
「まあ、そうだな。柳田さんはいい人だわ」
「お前のことも気にしてたぞ?」
「なんて?」
「抱え過ぎだってよ」
「じゃあ、代わりにやれっていう話だよ」
「そういうもんかな?」
「だってそうだろ――」
小宮は、そう言いかけて、ハイボールを飲んだ。まるで、口から出てきそうになった言葉も一緒に、無理矢理飲み込んだみたいだった。
「飲み過ぎじゃねえの?」
西田が言った。
「まだまだ、平気だよ」
「まあ、いいけどさ。つぶれるなよ」
「西田は、仕事どうなんだよ? 不満とかねえの?」
「不満がないことはないよ。けどまあ、淡々とやってるよ」
西田は、小宮の様子を見て、お冷を注文した。「一回、飲んでおけよ」と小宮に飲ませた。
小宮の体は水を欲していたみたいで、一気に飲み干した。
「営業はいいよな。自分のことだけ考えていたらいいんだからよ」
小宮は言った。脳が酒づけになっているようで、ろれつが回っていなかった。
「まあいいけどさ、それ、俺以外には言うなよ」
「わかってるよ。でも、なんかさ……。営業って結果が数字で出るよな?」
「そうだな」
「それが、いいなって思うんだよ」
「そうか?」
「そうだよ。俺らは、事務職だから結果とかねえし、評価もされないんだよ。だから、全員やる気ねえし」
「小宮は、評価されたいのか?」
「別に、そういうわけじゃねえよ」
「じゃあ、なんなんだよ」
「なんでもねえよ」
少しの沈黙。
二人は黙ってハイボールを飲んだ。
二人ともグラスを空にして、もう一杯ずつ注文した。
「これ飲んだら帰るか?」
西田が言った。
「もう帰るのか? もう一軒行こうぜ」
今度は小宮が言った。
「お前、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
小宮の声が店内に響いた。無意識のうちに大声が出ていた。西田は、それを気にしているようで、周りをチラリと見た。
「もう一軒行こうぜ」
「……じゃあ、次で最後な」
二人は、グラスを空にすると、店を出た。
小宮は、酒がまわっているようで、あきらかに態度も声も大きくなっていた。
「よし! 次はキャバクラ行くぞ!」
小宮が言った。
「キャバクラ? 嫌だよ」
「なんで? たまにはいいじゃんかよ」
「また今度にしようぜ。だいたい、ここら辺にキャバクラないし」
「ちぇ、なんだよ。つまらねえの」
結局二人は、チェーン店の居酒屋に入った。店内はにぎやかで、話もできないくらいにうるさかった。
とりあえず、焼き鳥とビールを注文した。
「俺さ、転職しようかなって考えてるんだよね」
小宮が言った。
「転職ね。どこに?」
「まだ、具体的には考えてないけどさ。今の会社にずっといる気はないんだよね」
「そうなんだ」
「西田は、転職とかしないの?」
「とくに考えてないな」
「でもさ、このまま今の会社にいたら結構やばいよ」
「そうなの?」
「そりゃあ、そうだろ。うちの会社なんて落ち目だよ」
「もう、転職活動してるの?」
「まあね。ただ、転職活動してる暇がないんだよね。でも、いつかはするよ」
小宮は、ビールを仰いで、焼き鳥をほおばった。
「転職活動もなかなか大変だからな」
「そうなんだよ。書類つくったりさ、結構、労力がいるんだよ」
「いつごろ辞めるの?」
「まあ、そうだな。来年か再来年か。あと三年はいないつもり」
「そっか。そんなに嫌なんだな」
「ああ、ものすごく嫌だね。すでに限界だよ」
「そうか……」
西田は、ビールを一口飲んだ。
「なんだよ?」
「いや、別に」
「なんだよ。言えよ」
西田は、黙ったままビールを飲んだ。
「パチンコでも行くか? 気晴らしになるぞ」
西田は言った。
「興味ねえよ」
「そうか」
気まずいような空気が流れた。
二人はしばらく黙ってビールを飲んでは焼き鳥を食べた。なくなったらまた注文した。そして、また飲んで食べた。あとは、くだらない話をした。特に中身のない話。セクシー女優の話。パチンコの話。老化の話。どれも、芯のない話だった。まるで、その場を取り繕っているようでもあった。微妙な気まずさの混じった空気を、当たり障りのない話題でかき回しているみたいだった。
「そろそろ帰るか?」
西田が言った。
「え? もう帰るのか?」
「いや、そろそろ帰った方がいいぞ。お前、酔いすぎ」
「そんなことねえよ」
「いやいや、今日はここまでにしよう」
「ちぇ。つまんねえの」
西田は、店員に声をかけた。
お会計をしている間も、小宮はぶつぶつと西田に向かって、「もう帰るなんて、つまらなくなったな。お前も」とか「前は、つぶれるまで飲んだもんだけどな」などと言っていた。
店から出ると、小宮は立っていられないみたいで、店の前でしゃがみ込んだ。
「おいおい。大丈夫かよ」
「大丈夫だよ。俺に構わずお前は帰れよ」
「小宮。しっかりしろ」
「大丈夫だって言ってるんだよ」
西田は深いため息をついた。
「立てるか? 肩貸すから、帰るぞ」
西田は、小宮の腕を取って、自分の方に回そうとしたが、小宮はそれを勢いよく振り払った。
「うるせえ! いいから、お前は帰れよ!」
小宮は、大声で言った。
「どうしたんだよ?」
西田は、まわりを見渡した。幸い人通りの少ない道で、好機の目でこちらをうかがっている人はいなかった。
「どうもしねえよ。とにかく、大丈夫だから、お前は帰れ!」
「あのな。そういうわけにいかないだろ?」
「なんでだよ。いいから行けよ。気にすんなよ。俺も大人なんだから、一人で帰れるって」
「わかった。とりあえず、タクシー呼ぶから。それ、乗って帰れよ。な、いいだろ?」
西田が電話しようとスマートフォンを取り出すと、小宮が急に立ち上がって、西田のスマートフォンを叩いた。スマートフォンは、地面に落ちて弾んだ。
「お前、何すんだよ……」
「いいよな。西田は。周りから評価されてよ」
「なんだよ。急に」
「それで、いい気になってるのか、知らねえけど。説教クサい態度取りやがって。いいよな、ほんとに。俺も、偉そうに説教してみてぇよ」
「はあ? 俺がいつ説教したよ」
「さっきからずっと、そんな態度だっただろうが」
小宮は、西田をにらみつけるように見ていた。小宮の目は、酔っぱらっているせいか、焦点も合っておらず、トロンといまにも溶けだしそうだった。
「落ち着けよ。小宮」
西田は、小宮の両肩をつかんだ。
「ちょっと、飲みすぎだな。いったん落ち着けよ」
小宮は、何か言おうとしたのか、口をモグモグと動かした。でも結局何も言わず、口を結んだ。
「小宮。なんか、気分を悪くさせたみたいだな。すまん」
西田が言った。
「いいよ。俺も悪かった。ちょっと、悪酔いしたみたいだ……。一人で帰れるから。ここで、解散にしよう」
「そうだな」
「じゃあな。今日は悪かったな」
「気にすんなよ」
西田は、去り際に「また飲もうな」と言って、去っていった。
一人残された小宮は、数分、どうしようかと考えて、結局、最初に入った《王将》に向かった。
今度は一人で席に座り、餃子とビールを頼んだ。
正直、餃子もビールも重たくて、胃袋が受け付けなかった。別に、お腹が空いていたわけではなかった。ただ、このまま家に帰るのがどうしても嫌だった。特に行く場所もなく、最初の店に戻ってきてしまった。
小宮は、ビールを仰いだ。
さっき、ここで同じビールを飲んだ時と違って、なかなかのどを通って行かなかった。
この後、どうしようか? と考えた。
何件もはしごをして最後には最初の店に戻ってきた。それなら、このまま永遠にぐるぐると同じ店を回り続けてみてもいいかもしれない。堂々巡りだ。そうだ、そうしよう。もういっそのこと、ぶっ潰れるまで、ぐるぐるぐるぐる巡り続けようじゃないか。
そんなことを妄想しながら、小宮はビールを飲み続けた。
しかし、体が拒絶しているのか、なかなかグラスは空にならなかった。
了
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